世界の十分杯


第1項.中国の欹器


 中国の欹器にはサイフォンの原理は活用されていない。しかし、戒めの杯としては、もっとも古いものといえる。ここでは、面白さよりは教訓を重視し、まず中国の欹器から紹介していきたい。
 欹器は日本語ではイキ、中国語ではyi1qi4(イーチ)、韓国語では의기(ウイギ)と発音する。そして、宥坐之器(ユウザノキ)という別の名称もある。この欹器が有名になったのは孔子(紀元前551-紀元前479)にまつわるからであるが、その逸話を紹介したい。





 孔子は弟子たちと一緒に魯国にあった桓公の廟を参拝しに行った時に、儀式の際に使う儀器を目にした。ところが、形が変わっており、その所以について廟守りに聞いた。

孔子:“あれは何の器ですか。”

廟守り:“桓公(?-BC643、中国の春秋戦国時代の齊国の王だった人物。 当時の中国には約3,000の大小の国があったが、その中でも大きな国は五つほどだったようである。 それらの国を春秋五覇と言ったが、齊国はそのうちの一国だった。そして、桓公はその齊国の君主だった。) がいつも近くに置き、座右の銘にしていらっしゃった器(宥坐之器;宥という字は一般的に許すという意味がありますが、 右の意味もあります。それで、いつも右において心の乱れが生じたときに見る物という解釈ができるかと思います。)です。 ”

孔子:“わかった。それの使い方がわかった。”

孔子は弟子たちを見回りながら、語った。

孔子:“水を器に注いでみなさい。”

一人の弟子が水を汲んできてゆっくりと注いだ。みんな息を飲んで見ていた。
空っぽの器は水が少し入ると、傾き始めた。そして、 器の真ん中まで水が入ったら安定して正しい形になり、 器がいっぱいに近づくや否やひっくり返ってしまい、中の水が全部消えてしまった。
皆、大変珍しくまた、面白くて何も言えず、孔子を見るばかりだった。孔子は手を打ちながら感嘆した。

孔子:“そうだね。世の中には満ちてひっくり返らないものはないものだね”

>子路:“先生、この器が空いていたときは傾いており、 真ん中ぐらいに水が入っていたときは正しく立ち、満ちた時はひっくり返ってしまいましたね。 ここに何の道理があるのでしょうか。”

孔子が弟子に答えた。

孔子:“そうとも。人もこの傾いた器と同じである。 聡明で博識な人は自信の愚かな面を見なければならないし、 功績が高い人は謙虚で遠慮しなければならない。また、勇敢な人は恐れなければならなく、 豊かな人は節約しなければならない。謙虚に退けば損をしないということもこれと同じ道理だ。”

原文は以下の通り

孔子観於魯桓公之廟、有欹器焉。

孔子問於守廟者曰、此謂何器。

守廟者曰、此蓋為宥坐之器。

孔子曰、吾聞宥坐之器者、虚則欹、中則正、満則覆。

孔子顧謂弟子曰、注水焉。

弟子挹水而注之、中而正、満而覆、虚而欹。孔子喟然而嘆曰、吁。

悪有満而不覆者哉。

子路曰、敢問持満有道乎。

孔子曰、聡明睿智、

守之以愚、功被天下、守之以譲、勇力撫世、守之以怯、富有四海、守之以謙。

此所謂損之又損而之之道也。

『荀子』の宥坐編





 要するに、欹器は、心の乱れが起きることを戒めるために近く(右)においておいた物である。 そのため、その教訓として「足るを知る」が強調されている。 人間を動かすのは利害であり、その根底には欲があると思う。 ところが、その欲が身の程を過ぎてしまったら、それまでの貯えが全部消えてしまう恐ろしい状況になってしまう。 腹八分目という言葉はまさに十分杯のメッセージと重なるところがある。かといって、 何もかも遠慮するということはないだろう。あくまで身の程を知り、自身を戒め、節制するということに尽きる。


第2項.ピタゴラス杯


 十分杯の由来は今から2500年前のギリシャの数学者で哲学者だったピタゴラス(紀元前582年 – 紀元前496年)にあると言われている。 そのため、この杯に彼の名前がついている。ちなみに、一個当たりの値段は約1,000円(9.90 €)である。

↑ 手前 左が「ピタゴラス杯」(市販品)。
奥が「欹器」(長岡歯車製作所)。


第3項.朝鮮半島の戒盈杯

 朝鮮半島にどのようなルートで伝わったかは不明だが、日本の十分杯と全く同じ仕組みの杯がある。 その名は盈ことを警戒するという意味を持つ戒盈杯(ゲーヨンベ)である。 記録上では、朝鮮の後期に作られたようである。白磁職人が大もうけをした後、 放蕩な生活をしたあげく、多くのものを失った。そこで、初心に戻り、 全身全霊で作り上げたものが戒盈杯だと言われている。 そして、朝鮮後期の巨商が自身を戒めるために常にそばに置いたと言われている。 韓国では、政治家からのプレゼント、新婚者へのプレゼントとして普及し始めているようである。 しかし、まだまだ日本同様、知名度が低いのは同じである。


↑ 本学所蔵の戒盈杯

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